ほのぼの夫婦のまったり日記

マイペースなまいにち

息子から見た父の人生(夫)

今週のお題「おとうさん」

 

はてなブログでは、今週のお題として、季節やイベントに応じてテーマを挙げていて、今週のお題は父の日に合わせて「おとうさん」でした。

 

テーマに合わせてブログを書くのは初めてですが、私の「おとうさん」に対する思い出を綴らせていただきたいと思います。

 

まず、私の父は昨年の2018年に52歳という若さで亡くなりました。

突然死だったため、原因は定かではないのですが、父はアルコール依存症うつ病を患っていたため、生活習慣の乱れから、心臓に不具合が生じたのではないかと思います。(検死の結果、医師からも、おそらく心臓だろうといった程度の説明のみ。)

 

私の「理想の父」=「わたしのおとうさん」でした。かっこいい、本当に自慢のお父さんでした。ただ、そんな父が壊れてしまいました。

 

〇私の父のヒストリー

 父は1966年、京都で生まれました。一人っ子。両親(私の祖父母)は共働きだったため、小さい頃はさみしい思いもしていたとのこと。小学校・中学頃まで体は大きめ(どちらかとと言うと太っちょ?お父さんにこのブログ見られたら激怒されそうですが、、、笑)。

高校でラグビーを始めて、体格も良くなり、昔の写真を見ると、かっこよかったです。ラグビーはそのまま専門学校や社会人になってからも、続けていたとのこと。

 仕事はレントゲン技師でした。ちなみにですが、父は専門学校のときに「最優秀者に送られる盾」を手に入れる程、勉学に勤しみ結果を残したこともあったそうです。

 父と母は同じ病院で出会いました。母は看護師です。何がきっかけだったか(ラグビー観戦?)忘れちゃいましたが、いい感じに話が進んで父が25歳、母が23歳の時に結婚。そして、父が26歳の時に待望の第一子(私)、2年後には第二子(妹)が生まれて4人家族になりました。母は私が生まれて仕事は退職。私が中学校になったころに復職しましたが、それまで「お金」という面では父が一人で稼いでくれていました。仕事は思い返すと、月~金、月に2回は土曜日出勤も。当直があることもしばしば。メインの病院以外に近くの病院へ派遣もいってました。父もすごい頑張ってくれていたので金銭面で不自由と感じたことは全くなかったです。年に一回の家族旅行、毎週のようにやっていた「おやつパーティー」等、家族の幸せいっぱいでした。

 父は職場でも優秀でした。若くして技師長に昇格し(最年少くらい?)、年配の方も多い職場を持ち前のリーダーシップで引っ張っていたとのこと。私も小学生の頃、職場体験で父の職場を訪れましたが、白いユニフォームを着て働く父の姿は、かっこいいの一言でした。

 (ただ、やはりそれだけ頑張る人だったからこそ、知らず知らずのうちにストレスを抱えてしまっていたのかもしれません。)

 父は近所の人からも「かっこいい」と言ってもらえるようなお父さん。スタイルも良いし、運動もできる。私が小学生の頃など、縄跳びができない・逆上がりができない・走るのが遅い、と運動神経が全くない子供でしたが、父が一緒に付き添って優しく教えてくれたのを覚えています。本当に尊敬できる、自慢のお父さんでした。

 

 少しずつ歯車が狂ってきたのは私が高校に入ったころからだと思います。父の飲むアルコールの量が増えてきました。それに伴って夫婦喧嘩もどんどん多くなっていったと思います。外で飲むことはなかったですが、ストレス解消のためか、一人で家で飲んでも泥酔するまで飲む。そんなことが、父40歳になったころからどんどん増えていき、しまいには毎日泥酔するようになっていきました。

 当時、私はアルコール依存症という言葉さえしらないくらい、アルコールについて無関心でしたが、今思うとそのころから間違いなくアルコール依存症だったと思います。

 父が48歳のころ、遂に父が胸のうちに秘めていた「しんどい」という言葉を母に伝え、それを職場に伝えた結果、同じ系列病院の別の職場に異動することができました。その結果、負担も少なくなり、状況も良くなると思っていましたが、異動後すぐに同じ職場で働いていた人が急に休み、新しい人もすぐに雇えなかった結果、父の負担・ストレスは減らない、もはや増えてしまいました。

 アルコールも結局やめられず、隠れて飲むという毎日。父が49歳のとき、職場で精神安定剤飲んで、意識が朦朧となったところを発見され、結局仕事を辞めました。(実際には、退職を選択したのではなく、退職せざるを得なかったとのこと)今思えば、辞める選択が遅かった。もうこの時に、父の精神はもう複雑骨折といっていいくらい粉々になっていたんだと思います。

 仕事を辞めてからもアルコールは辞められません。隠れて飲むことが続きます。母もストレスはどんどん溜まり、喧嘩になります。私も妹も何度も話をして、父の心を戻せたと思うこともありましたが、それでも父はアルコールに「依存」していたので、同じことの繰り返しです。

 また、父は責任感が強い人間でした。そのため、仕事を辞めてゆっくりすれば良いのに、次の仕事をすぐに見つようと必死になってしまいました。

 父が仕事を辞めてからは、さらに拍車をかけて人間が壊れていってしまっていたと思います。

 前後関係はよく覚えていませんが、

 ・急にふらっと外に出て行って戻ってこない→探しても見つからないので警察の世話になる

 ・父は病院嫌いのため、連れていけない(幾度となく、アルコ―ル依存のこと話しても、認めない)

 ・ついには「死にたい」と言い出す→家族からすると急にどこかに行って自殺してしまうのは嫌だと、精神病院と連れて行った結果、うつ病・アルコール依存と診断され隔離施設に入ることになる(仕方ないとは言え、隔離施設は自由がなく、入ってしまうとさらに心が壊れてしまいそうな冷たい場所という印象を覚えました)

 ・アルコール依存症の治療のための飲み薬等も処方されてましたが、服用してくれないので効果でず(見張ったりもしましたが、効果がでませんでした。)

 ・家族も父を信じられない状態になり、父も余計しんどい状況になる

 ・母のストレスの限界に(若干、母もうつ病懸念)→離婚を選択。家庭崩壊(まあ、離婚前にすでにボロボロでしたが・・・)

  母側に妹、父側に私が付きつつ、私は母側ともコンタクトとるといった関係性に

 ・離婚の後は、もう悲惨。目を離すと、すぐに首を吊ろうとする

 ・財産分与のため、調停(父は調停に出向かないため長期化)弁護士通じたやりとりで泥沼に

 ・祖母との2人暮らし開始

 ・何とか説得して、アルコール依存症専門の病院に入院。しかし、2週間程度で退院。(難しいことに、本人の意思がなければ、入院し続けてもらうことができないとのこと)

 ・1~2年間、隠れて飲む、、、病院にも行かない、、、引きこもりがちに、、、、、、、(正直、私は、もうお手上げになってしまっていました)

 

 ・そして、去年、突然死。ちなみに、その日の翌日は、私が父と会う約束をしていた日でした。

 

書ききれていないことも大いにありますが、これが父のヒストリーです。

 

こうやって振り返ると、毎回後悔が生まれます。

「あの時、あれをしておけば」「もっと、誰かを頼っていれば」「仕事なんてやめて父に付き添っていれば」

ただ、本当にその時に今考えられる対策を実行できる余力があったかというと、絶対になかったですし、何回同じ状況になったとしても、同じことをするしかなかったんだと思います。もし、去年に父が亡くなるということが分かっていれば、行動も変わっていたかもしれません。ただ、当時は自分の家庭のことばかり考えていて、父が復職できなかった時の生活の面倒や、それこそ祖母(周りに親戚もいない)のことを考えると、辛くしんどく、考えたくないという思考に陥ってました。父と会うのも、弱っていく父を見ていて正直辛かったです。そして、変えられなかった自分の無力さにも嫌気が差していました。すべてを投げ出したかった。考えたくなかった。今でも正解は見つかりません。

 

しかし、辛い思い出もたくさんありますが、父は多くの幸せもくれました。そこだけは絶対に忘れてはならないと思います。

元気だったころ、一緒に飲みに行くと「息子と一緒に飲めることは幸せ」と言って気持ち良さそうな顔をしてくれたことや、私の学生時代に妻と付き合っている時には「男は出すべきところはお金を出さんといかん」とおこづかいを内緒でくれて応援してくれたこと、上手いとは言えない字で手紙を書いてくれたこと等、思い返すと本当に沢山の「幸せ」「愛」「笑い」「かけがえのない時間」をくれました。

祖母に聞いた話だと、うつ病アルコール依存症になり、離婚したあと、祖母の家に住んでいた時でも、近所のご老人の体を気遣ったりと、優しいところは変わらずあったとのことです。

 本当に父が去年亡くなってしまったことは残念で仕方ありません。良いおじいちゃんになってくれると思っていました。

 また、父は離婚した後、母の悪口をかなり言ってましたが、遺品整理をしているときに、母も一緒に移った家族のアルバムは捨てずにとってあることが分かりました。妹との写真は部屋にもずっと飾ってありました。(正直捨てたと思っていたのでびっくりしました。)家族のことは本当に大好きだったんだと思います。今思っても、遊んでいた父の姿は全くと言っていいほど記憶にないです。家族のために生活している、そんな父でした。また、母も父のことは好きでした。だからこそ、離婚を選択したときは両者とも、本当に苦しかったと思います。

そして、それを私と妹も知っているので、思い出す度に心が苦しくなります。

 

家族って何だろう?正直私の父・母・妹との幸せいっぱいの4人家族がこんなことになるなんて予想できませんでした。

上手くいっている家族も、何かをきっかけとして、壊れてしまうこともあります。

人の人生って本当に難しいです。

 

 私も父のことは大好きでした。

 父の尊敬していたところは見習い、良くなかった点は繰り返さないよう、私の心にとどめ、いつか私自身も、子どもにとっての「かっこいい父」になれるように人間を磨いていきたいと思います。

 

 最後にですが、いつも、一生懸命な全国のおとうさん・おかあさんの健康を祈念して、締めの言葉とさせていただきます。